偉人たちのラブレター

街コンレポート_本を読んでいる女性の手

相手は美少年だった!? シェイクスピアが詠んだ恋の詩

『ロミオとジュリエット』、『真夏の夜の夢』といった多くの傑作を残した、イギリスの劇作家であり、詩人のウィリアム・シェイクスピア。恋物語も多く描き、“love letter(ラブレター)”という言葉を初めて使った人物と言われています。そんな彼が書くラブレター、ちょっと気になりませんか?

『ソネット集』という詩集の中の1作は、恋心を詠んだものでした。ただその内容が、少年に対して書かれているというから驚きです。「君を夏の日にたとえようか。いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。(中略)時に天なる瞳はあまりに暑く輝き、かと思うとその黄金の顔はしばしば曇る。(中略)君の永遠の夏を色あせたりはさせない、もちろん君の美しさはいつまでも君のものだ、まして死神に君がその影の中でさまよっているなんて自慢話をさせてたまるか」何も知らずに読めば、女性にあてたものとして読んでしまいますが、どうやら、劇団に所属する美しい少年にあてた内容だったようです。1998年の映画『恋に落ちたシェイクスピア』では、男に扮して舞台に立つ少女とシェイクスピアが恋に落ちる物語が描かれていましたが、実際は本当に少年に恋していたようですね。これだけ美しい言葉で賛辞を送っているのですから、よっぽどの美少年だったのかしら。

不可能”が垣間見えちゃう!? ナポレオンのラブレター

「余の辞書に不可能の文字は無い」の言葉が有名な、フランスの軍人でフランス皇帝にも即位したナポレオン・ボナパルト。フランス革命時の混乱を治め、ヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたという英雄ですが、女性に対しては苦労した面もあったようです。ラブレターに垣間見ることができるので見てみましょう。

新婚当時、妻であるジョゼフィーヌにあてた手紙です。

「お前のことなど全く愛していない。それどころか憎んでさえいる。私を愛していないからだ。お前の手紙がどれほど私を喜ばせるかわかっていながら――たった5、6行の手紙さえ書こうとしないじゃないか!」

これはナポレオンがイタリアの戦地から送ったものですが、かなりキレてますよね。それもそのはず、ジョゼフィーヌは結婚後、浮気癖が酷かったそうで、ナポレオンは嫉妬に苦しめられたようです。手紙はさらに続きます。

「新しい恋人ができたのか。用心しろよ、ジョゼフィーヌ。ある晴れた晩、ドアが破られ、私が現れる。実際、愛しい人よ。私はお前から手紙が来なくて心配なのだ」

これだけ苦しめられた末、ナポレオンは結局ジョゼフィーヌと離婚。離婚する前になってジョゼフィーヌはナポレオンとの結婚の価値に気付き、離婚を拒んだそうですが、後の祭りだったとか。ナポレオンほどの英雄でも、浮気症の妻を思い通りにするのは「不可能」だったみたいですね。

わたしはとてもみじめです”童話作家アンデルセンの悲痛なラブレター

『みにくいアヒルの子』や『マッチ売りの少女』といった、名作童話を描いたデンマークの作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン。彼は実はかなりの変わり者。片思いの相手に送ったラブレターに、自分の生涯を書き連ねたというのは有名な話です。そんな変わり者のラブレターを少し覗いて見ましょう。

70歳までの生涯の中で、アンデルセンが恋をしたのはたったの三度。ただ、一度も恋が実ることはありませんでした…。これは、失恋した相手に対して送ったラブレターです。「もう1人の男を本心から愛しているのですか? (中略)あなたが幸せになりますように。そして、あなたのことを永遠に忘れられない誰かのことは、どうか忘れて」意中の女性にはどうやら恋人がいたようですね。なんだかとても辛い気持ちが伝わってきます。
また、「ああ! あなたは一言も同情ある言葉をかけてくださいません。私はとてもみじめです。あなたがぐっすり眠っている夜、私はとても悲しく、とても苦しんでいるのです。」容姿に自信がなく、人とコミュニケーションを取るのも苦手で、終生女性にモテなかったアンデルセン。その悲痛な叫びが聞こえてくるようです。結局生涯独身で終えましたが、童話作家として世界中の子供たちに愛され続けていることが、せめてもの救いですよね。

相対性理論の発表ができたのもこの手紙のおかげ!? アインシュタインのラブレター

「相対性理論」を提唱したことで知られるドイツの理論物理学者、アルベルト・アインシュタイン。物理学において数々の業績を残し、ノーベル物理学賞を受賞した“天才”と呼ばれる偉大な人物です。そんな彼が恋人に送ったラブレターは、なんともキュート! 女性なら誰もがメロメロになってしまいます。

チューリヒ工科大学に通っていたアインシュタインは、同大学の3歳年上の女学生、ミレーバ・マリッチと出会い、恋に落ちました。交際が始まったミレーバに対してのラブレターを見てみましょう。

「愛しい君よ、君に出会う前、僕は1人で、どうやって生きていられたんだろう。君なしでは、僕の人生ではない」

なんてストレートで愛情の伝わるラブレターでしょうか。さらにこうも綴っています。

「愛する人よ。結婚したら一緒に化学の研究を続けよう。教養のない俗物として年を取りたくないからね。今、君以外の人は全て、目に見えない壁の向こうにいるようで、よそよそしく感じるんだ」

このラブレターを送った後、大学を卒業したアインシュタインは手紙の通りミレーバと結婚し、一緒に研究を続けました。そして結婚の翌年、あの「相対性理論」を発表したのです。アインシュタインはミレーバのことを「私の小さな右手」と呼んでいました。相対性理論の発表ができたのも、彼女の支えが大きかったのかもしれませんね。

3年間で1800通!? ゲーテの名作『若きウェルテルの悩み』は自身の恋から

多くの名作を世に送り出したドイツの文豪・ゲーテの代表作といえば、『若きウェルテルの悩み』。主人公・ウェルテルが、すでに婚約者がいるシャルロッテに恋をしてしまう物語なのですが、実はシャルロッテは実在する人物であり、ゲーテが恋した相手なんです。

20代後半のゲーテは、とある舞踏会で19歳の少女・シャルロッテに出会い、恋に落ちることになります。毎晩のように彼女の家を訪れ、熱く口説こうとするゲーテ。しかし、ほどなくして彼女が友人・ケストナーと婚約中であることを知りました。諦めきれないゲーテは、シャルロッテに手紙や詩を送るのです。その数、実に約1800通。およそ3年間、1日2通弱書いていた計算になるとのこと。何がすごいって、それだけ書くことがあったことですよね。結局、恋は実ることなく終わりを迎え、ゲーテは自殺まで考え始めたそうですが、それが後の名作となる『若きウェルテルの悩み』を生み出す元となったのであれば、良かった(?)とも言えるかもしれません。1800通も貰って、なびかなかったシャルロッテも天晴れ。

将来に向かって歩くことは僕にはできません”後ろ向き過ぎるカフカのラブレター

『変身』や『審判』、『城』などの小説で有名なチェコの作家フランツ・カフカ。ユーモアと孤独感、夢のような独特な雰囲気を醸し出す作風で、世界中に熱狂的なファンを持つカフカですが、どうやらかなりの変わり者だったようです。特に異常だと言われているのが、彼が書いたラブレター。

カフカは、初めての恋人フェリーツェ・バウアーにあてて、なんと300通以上のラブレターを送ったそうです。そして2度も婚約しながら、結婚にはいたらなかったとか。しかもそのラブレターの内容は、一般的なラブレターのイメージからはかけ離れています。

「将来に向かって歩くことは、僕にはできません。将来にむかってつまずくことはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」

これを恋人にあてて送るというのはどういう心理状態? とちょっと疑ってしまいますよね。お次は大学生時代にサナトリウム(結核の療養所)に入院していた時に出会った人妻に送ったラブレター。

「ちょっと散歩をしただけで、ほとんど3日間、疲れのために何もできませんでした」これはラブレターというより、健康状態の報告ですね。

どういうわけかラブレターは後ろ向きな物ばかり。しかしカフカは生涯に多くの女性と恋をし、恋人の他にも女性経験が豊富だったとか。体も弱く、心細い手紙ばかり送るカフカに、女性たちは母性本能をくすぐられたんでしょうか?

巧みな“ツンデレ”テクニック! 夏目漱石のラブレター

『吾輩は猫である』や『こころ』、『坊っちゃん』といった名作の生みの親、言わずと知れた文豪、夏目漱石。作品に描かれる主人公は、やや偏屈で頑固者であることが多いですが、それを書いた漱石自身も偏屈で有名です。漱石が妻にあてて書いたラブレターは、その偏屈さと、ちょっぴり覗く愛情が“ツンデレ”効果を発揮しているかもしれません。

漱石がロンドンに滞在している間に、日本にいる妻・鏡子にあてた手紙です。「久々で写真をもって拝顔の栄を得たがあいかわらずご両人とも滑稽な顔をしている(中略)少々恥ずかしいような心持ちがしたが、先ずお二方の御肖像をストーヴの上へ飾って置いた。」これは、妻と娘の写った写真が送られてきたことについて書いています。“滑稽な顔”とけなしつつ、恥かしがりながらストーブの上に飾った、と白状しているところがとてもお茶目ですよね。また「おれの様な不人情なものでも頻りにお前が恋しい。これだけは奇特といって褒めてもらわなければならぬ。」と、なぜか上から目線でありながら、しっかり“お前が寂しい”と吐露しています。なんという巧みなツンデレ! ちなみに漱石の妻は恐妻家だったそうですが、手紙を読む限りラブラブですよね。羨ましい限りです。

「お前様を殺すか、快楽の痛手を与えるか、二つに一つ」 北原白秋のラブレター

『桐の花』や『落葉松』などで知られる日本の歌人・詩人・童謡作家の北原白秋。20代の頃に白秋は、隣家に住む松下俊子という女性と恋に落ちたのですが、俊子は男性を翻弄する“魔性の女”でした。その俊子に送った白秋のラブレターには、こんな言葉が…。

「もっと亢奮(興奮)さしてその上で昔より熱烈な新らしい抱擁に堕ちようではないか、もっと手紙をおよこしなさい――何れにしてもはなれて見なければ女の美しさも男のえらさもわかるものではない。ただむやみに恋しい恋しい――僕はお前に惚れているんだもの、バカだね」

振り回されている雰囲気が漂いますが、惚れたもん負けといったところでしょうか。また、こんな文も。

「今度逢わばお前様を殺すか、一生忘れられぬほどの快楽の痛手をお前様に与えるか二つに一つに御座候」

嘘やデタラメが多いことに腹を立てた白秋が俊子に対して書いたのですが、随分と両極端ですよね。白秋のいう「快楽の痛手」というのが、とても気になります。

ちなみに、俊子には夫がいて、彼女と白秋のふたりは、その夫に姦通罪(婚姻して配偶者のある者が、ほかの者と姦通することにより成立する犯罪)により告訴され、拘置されました。2週間後に釈放とはなったものの、当時詩人として人気だった白秋の名声は地に落ちてしまいます。その後ふたりは結婚しますが、わずか1年ほどで離婚。

まったく、不幸だらけの恋のように感じますが、白秋の作品に大きな影響を与えたそうなので、結果的には良かったのかもしれませんね。

文ちゃんの事を苦しい程強く思ひ出します”芥川龍之介が書いたラブレター

『羅生門』や『蜘蛛の糸』などで知られる明治の文豪、芥川龍之介。何かを睨むようないかめしい表情の写真と、人間の生き様を鋭く描いた作風が有名で、どことなくとっつきにくそうな印象がある芥川ですが、婚約中だった塚本文にあてたラブレターは、そのイメージとはかけ離れたものだったんですよ。

芥川は筆まめで、生涯に1700通近くの手紙を書いたほど。特に、恋人であり、後に妻となった文にも頻繁に手紙を送っていました。その内の一通を、冒頭から見ていきましょう。

「文ちゃん。先達は田端の方へお手紙をありがとう。(中略)会って、話をする事もないけど、唯まあ会って、一緒にいたいのです。(中略)文ちゃんの事を苦しい程強く思ひ出します。そんな時は、苦しくつても幸福です。」と、小説とは打って変わり、とても可愛らしい内容です。文は芥川の8歳年下でしたが、芥川は文の前では甘えん坊だったのかもしれませんね。また締めくくりには「文ちゃんはもう寝ているでしょう。(中略)もしそこにボクがいたら、いい夢を見るおまじないに、そうっとまぶたの上を撫でてあげます。」と、なんと素直でロマンチックなんでしょうか! こんなラブレターをもらったら女子はもうメロメロですよね。

名作『伊豆の踊り子』は実体験!? 川端康成に届いた『非常』な手紙

近代の日本文学の頂点に立つ作家のひとり、川端康成。多くの名作を生み出しているため、どれが1番かは決めかねますが、代表作といえば『雪国』と『伊豆の踊り子』ではないでしょうか。後者は山口百恵&三浦友和の映画も有名だったりしますけど、実は、川端本人の実体験が元になっているんですって。

2014年、神奈川県鎌倉市の川端邸で婚約者に宛てた手紙が発見されました。「君から返事がないので毎日毎日心配で心配で、ぢっとして居られない。手紙が君の手に渡らなかったのか、お寺に知れて叱られているのか、返事するに困ることあるのか、もしかしたら病気ぢゃないか、本当に病気ぢゃないのかと思ふと夜も眠れない」と、書き出しから切なさが溢れた内容です。

これは当時22歳の川端が、初恋の相手・初代に宛てたもの。しかし、川端が東京住まいに対し、初代は岐阜に住んでおり、年齢も15歳とだいぶ下でした。それでも両想いで婚約に至るのですが、この手紙を送った直後、初代から「わたしにはある非常があるのです」という手紙が届き、理由不明のまま婚約は無きものとなってしまいました。

そんな初代との恋愛を題材に書いたのが、『篝火』『非常』『彼女の盛装』といった、“ちよ物”と呼ばれる作品群。中でも『非常』は、初代との関係がそのまま綴られている作品です。『伊豆の踊り子』もまた、影響を受けた1作といわれていますが、川端を知るには『非常』を読むのが近道かもしれませんね。

一ばんいいひととして、ひつそり命がけで生きてゐて下さい”太宰治のラブレター

『人間失格』や『走れメロス』といった多くの傑作を世に送り出し、若干38歳という若さで自らの命を絶った作家、太宰治。妻子持ちでありながら愛人を持ち、入水自殺の際も愛人と一緒でした。そんな彼が愛人の1人にあてたラブレターは、痛切で胸に響くものでした。

ラブレターを送った相手は太宰の愛人であり、また没落した貴族の物語『斜陽』の主人公のモデルであった太田静子です。「いつも思つてゐます。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思つてゐました。正直に言はうと思ひます。(中略)おかあさんが無くなつたさうで、お苦しい事と存じます。いま日本で、仕合せな人は、誰もありませんが、でも、もう少し、何かなつかしい事が無いものかしら。」終戦の翌年に送られたこの手紙には、戦後の生活の苦しさを嘆きながら、母親を失った静子を慰める太宰の気遣いが垣間見えます。最後の締めくくりでは「一ばんいいひととして、ひつそり命がけで生きてゐて下さい コヒシイ」と書かれています。“愛している”とか“好きだ”なんて安直な言葉を使わず、最後の最後に“コヒシイ”とストレートに伝えており、より気持ちの強さがわかります。奥さんがいながら…という気がしなくもないですが、本気の純粋な恋情が伝わってきますよね。

谷崎潤一郎が後の妻に送ったMっ気たっぷりの恋文

芸術性の高い純文学により、“大谷崎”と呼ばれた文豪・谷崎潤一郎。その代表作のひとつに、幾度にわたり映像化された大作『細雪』がありますが、この物語は妻・松子とその姉妹を題材にした物語になっています。ただ、松子と出会った頃、谷崎には妻がいて…。

関東大震災を機に、東京から関西へと移った谷崎は、大坂で24歳の松子という女性に出会いました。しかし当時、谷崎は40歳であり、2人目の妻もいましたし、松子も関西随一といわれた豪商の家に嫁いだ身。年齢も違う、どちらにも結婚相手あり、しかも松子は大商人の嫁と、許される恋ではありませんでした。しかし、谷崎は華やかで品がある彼女への想いが募り、彼女もまた彼に惹かれ、すぐに手紙のやり取りが始まります。結果的にふたりは結ばれることになったのですが、2015年に、谷崎が松子に送った手紙200通が公表され話題を呼びました。その中には「もし幸いに私の藝術が後世まで残るならば、それはあなた様というものを伝えるためと思召してくださいまし」といったステキな文もあれば、「御寮人様の忠僕として、もちろん私の生命、身体、家族、兄弟の収入などすべて御寮人様の御所有となし、お側にお使いさせていただきたく、お願い申し上げます」というMっ気漂うものまで…。ファンにとっては新たな一面を見れるのは嬉しいことですが、谷崎本人がどう思ったのか聞きたいところです。

天下一の強さと評された、武田信玄の衝撃のラブレター!?

戦国時代の武将で、甲斐の守護大名であった武田信玄。上杉謙信との長きに渡る川中島の戦いに勝利し、隣国の信濃国をほぼ領地にしたことでも知られている有名な戦国大名です。「風林火山」の軍旗が印象深く、天下一の強さだと評された武田軍を率いた武田信玄。しかしそんな勇ましい信玄のラブレターと言われているのがこちら。

以下は現代語風に意訳したものです。

「今まで弥七郎にアタックしたことはありますが、腹が痛いとか言って断られました。ほんとです(中略)弥七郎と寝たことはありません。今までもありません。昼も夜もそんなことはしません。まして今夜そんなことになろうはずがありません」

これはどうやら小姓(仕えの少年)に出した手紙のようです。そして、他の男性との仲を疑われ弁解しているところだとか。続けて小姓への思いをつづっています。

「あなたと結ばれたいとあれこれと動き回るのに、かえって迷惑でしょう(中略)このことにうそはありません。うそがあればきっと天罰をうける(中略)本当なら宝印に記すべきでしょうが、役人に見られると困るので、普通の紙に書きました」

天下一の強さと評された武田軍の武将とは思えません。なんとも心細そうで、相手との恋路を心配する乙女のようです。戦国時代は戦に女性を連れて行けないので、小姓と恋仲になることが時々あったとか。当時の風潮の一端を垣間見ることのできる面白いラブレターですね。

「絞め殺すほど抱きしめたい」スターならではの恋の苦悩… 石原裕次郎のラブレター

皆さんは好きな人にラブレターを書いたことがありますか? メールやLINEといった簡単な連絡手段と違い、ペンで一文字一文字書いていく手紙には、独特の温かみがあっていいものですよね。まだ携帯が普及していなかった時代には、思いを伝えるのにラブレターを書くことが普通でした。一般人だけでなく、あの誰もが知る昭和の大スター・石原裕次郎さんもラブレターを送っていたんですよ。

石原軍団を代表するスター俳優の裕次郎さんは、後に妻となるまき子さんとまだ交際中だったころ、ラブレターを何度も送っていたとか。

その一部には「逢いたくて逢いたくてしょうがない。絞め殺すほど抱きしめたいけど僕の足がマコの部屋にむかないの」と書かれていました。強い恋慕の気持ちと、思うように会うことができない辛さが滲み出ていますよね。まき子さんは当時、北原三枝の芸名で女優として活躍し、裕次郎さんとは映画『狂った果実』の共演をきっかけに知り合いました。しかしお互いにスターであったため、表立った交際ができず、手紙のやりとりが増えていったとか。

付き合い始めた年の手紙には「どうして僕等は、暗い人影のない夜の道を歩くことだけを唯一の幸せと思わないといけないのか?」「マコのことだけで一杯で他の考えも浮かばないよ」「離れていても一緒」と、書かれています。中々会うことのできないスターならではの恋の悩みが伺えますね。2人は後に結婚し、石原さんが亡くなる最後まで添い遂げました。
会えない2人を、ラブレターのやり取りがつなぎとめていたんですね。

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